木工のところで出会った、ある場面を紹介したい。
(写真の子は以下のエピソードに出てくる子ではありませんよ)
少年は「椅子」を作っていた。
しかしなんだか「足」が短い椅子だ。
少年も同じように感じていたようで、「でも足が短いんだよなぁ。うーん…」とブツブツ言いながらそれでも作り続け、なんとか4本の「足」を付け終えた。
すると少年は「やっぱこれ、椅子じゃないな。踏み台だ」と。
「なるほど」と思いながら見ていると、「踏み台」の上に少年が乗ってみた。
その拍子に、「足」のうち2本がグラグラと取れてしまった。
ちいさな滑り台のような形となったそれ。
「あーあ」と少年は言いながら見つめ、少し考えて、「やっぱり椅子だわ」と斜めのそれに腰掛けた。
なんとも素晴らしい場面に出会えたと私は思った。
「まあいっか」と思え、「こうじゃないならこうだ」と柔軟に思える。これこそが、生きていく力なのではないか。
椅子に見えなかったら「失敗」なのではない。
それが「踏み台」になる価値を見出せることがなにより大事なのだ。
「椅子に見えない」「椅子にするにはこうしたらいい」と教えてしまっていたら、この可能性さえ、何もなかったことになる。
「失敗」から挫折かやり直ししか生まれないなんて悲しすぎる。
「失敗」から新たな価値を見つけ出せること。
安心して「失敗」ができる環境があること。
そのためには、「失敗」を笑って受け止められる大人でいることだな、
なんて、その少年を見ていて思った。
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