育児のこと(食事編)

今日は我が息子、原因不明の不機嫌デー3日目でした。家にいると「抱っこ、抱っこ」、少しでも「それはいけないよ」というようなことを言うとそっくり返って大泣き、ご飯は選り好みしてこれまた大泣き。理由はわからず。

今日の夜ご飯、泣くわ喚くわどうしたもんかと私もお手上げ。もういいやと、食べさせるのを一回やめて、無敵の「おかあさんといっしょ」の動画を見せた。ピタッと泣き止んだ息子。音楽に合わせて体を揺らしちゃったりして。これならば食べられる?と思い、動画を見せたまま食べさせてみると、食べる食べる。今度は抱っこしろと泣くから、動画はそのまま膝の上に座らせて食べさせたらまた食べる。

育児書や専門書には「ごはんの時にはテレビは消しましょう」「お母さんも一緒に食べ、『おいしいね』と語りかけましょう」などと書いてある。

けどそれ、毎日できる?1日3回、毎回できる?

現実は、洗われていない調理器具が溜まったシンクを気にしながら、味噌汁をこぼして机に塗りたくられてるのを拭きながら、気に入らないごはんを口から出して床に落とそうとしているこどもの手を止めながら、高い椅子から立ち上がって机に登ろうとするのを阻止しながら、自分のごはんはそっちのけで、こどものごはん。

テレビを消すことも、「おいしいね」って語りかけることももちろん大事だと思うけど、毎回できんわ!…と思うのです。

機嫌が悪いのが続いたり、毎日毎日イヤイヤの連続だと、余計こどものいろいろな感情につきあえなくなる。

夜ご飯中に「おかあさんといっしょ」を見せたのは初めてでした。いろいろな思いやこだわりの元で育児するのも大事。だけど、ご飯中に動画を見せることで、母子共に笑顔でご飯を終えられたから、今日のところはそれでよし、とこだわりをひとつ乗り越えた今日の私でした。

おかあさんといっしょのおにいさんとおねえさん、どうもありがとー!!

(ご飯中にテレビや動画を見せるといいですよという趣旨ではないので誤解なきよう)

ちゃんとやろうと思えば思うほど追いつめられるし辛い育児。

「今日のところはこれでいっか」とか「こんなもんでいっか」と思う大事さを毎日学んでいます。

教育シンポジウムに参加して、今、改めて思う「市民(当事者)」という意識の大切さ

去る1月21日(日)、市原市市民会館にて行われた「第16回教育シンポジウムinICHIHARA」にパネリストとして参加してきました。

テーマは「次の時代を生きる子どもたちに求められるものは〜市原の子どもたちを未来へつなぐために〜」でした。

学校関係の会長さんや所長さん、退職された校長先生や教頭先生などが客席にいらっしゃるというイベント…(緊張しかない)

市民活動を続ける中で感じる、現在の子どもの姿やこれからの子どもたちについて考えていることを話してきました。

多方面で活躍されている方が集まっていたので、いろいろな角度から、様々な意見が出されていました。

子どもたちを大切に想う気持ちはみんな同じはず。ならば、子どもたちに、おとなはどうやって関わっていくのか、何を大事にしていったらいいのか…

答えはありません。こうして一緒に考えあうことが大事なのだと思いました。

 

最近強く感じることがあります。それは「市民」という意識が、多くの人にとって希薄であるということです。

「市民」って…

・自分がこうしたいということを実現していく権利が誰しもにあるということ。

・人が人として楽しく、よりよく生きるおもしろさを常に追いかけていくということ。

・人が「ココ」で暮らすということの、当事者になるということ。

今は、家を買い、モノを買い、サービスまで買う時代です。

だけどそうやって、「消費者」として、「お客さん」として、存在するよりも、自分がなりたい方向に自分で一歩ずつ歩いていく方が、暮らしはずっとずっと楽しいと思います。

でも…残念なことに、現代を生きる子どもたちは、「消費者として」生きる生き方しか、知らない子どもが多いです。

多くのおとなが「消費者として」生きているのだから当たり前とも言えます。

「これしていいですか?」「何をしてもらえるんですか?」と、もぐらの冒険に初めて来たこどもたちが(おとなたちも)、スタッフに問いかけてくるのがこの証拠です。

何かをしてもらえるという環境でしか過ごしていない、許可を得てからしか動いてはいけないという状況にしかいない。

それではいけないと危機感を持ち、わたしはもぐらの冒険を立ち上げました。

今、おとなが大事にしなければいけないのは、「あいさつができる子」を育てることでも「整理整頓が得意な子」を育てることでも、「成績の良い子」を育てることでもありません(あえて断言します)。

そんな目に見える形ではなく、「自分で選ぶ楽しさ」や「自分で歩んでいく面白さ」を子ども自身が感じて生きていくことを、どれだけ保証できるかということだと思っています。

「自分で選ぶ」ということは、そばにいる人に信じてもらえているという状況で可能になります。

「自分で歩んでいく」ということは、そばにいる人が転んだ時に手をとってくれるという安心感から可能になります。

「自分で」という言葉だけを聞くと、「ひとりで」というように聞こえますが、その逆です。

「誰かと共に」ということなのです。

スマホ一台あれば何でもできてしまう現代。便利さを否定はしませんが、「ひとりで生きていかなくてはいけない」と感じやすいという状況でもあります。

こういう時代だからこそ、教育に携わる方々には、「一緒に子育てしよう」と、「共に生きていこう」と伝えていってほしいと願っています。

 

教育現場や行政の管轄では行き届かないところに手を伸ばせるのが市民活動でもあります。

資格や学歴に関係ない、「誰でも」できるという活動に意味があると思っています。

もぐらの冒険は、市民活動だからこそできる活動をこれからも続けていきます。

「遊びで育まれるコドモのミエナイチカラ」2017.11.3 講演会報告

遊びで育まれるコドモのミエナイチカラ

講師:安中圭三氏

2017年11月3日(金・祝)市原市勤労会館にて「遊びで育まれるコドモのミエナイチカラ」と題して、「遊び」を「環境」から考える講演会を開催した。講師には、数々の保育園の園庭デザインを手がけ、キッズデザイン賞を受賞している、株式会社コト葉LAB.代表取締役の安中圭三さんを迎えた。もぐらの冒険スタッフ「がーり」が数年前にたまたま園庭の写真を見て、その園庭に惹きつけられ調べていくと安中さんだとわかり、SNSを通じて安中さんと繋がっていったことが安中さんとの出会いであった。

今回はコドモにとって「いい環境」とは?コドモはどんな場所で遊ぶのか?という問いから始まり、私たちが捉えている遊びということを考え直すというテーマで講演いただいた。

まずコト葉LAB.の紹介からハッとする。コト葉LAB.には、『「子」と「場」をつなげる』、『「事」を産み出すデザイン』という意味が込められていて、『「言葉」は「伝える」手段』で『「言葉」を扱う様に「デザインしたモノ」によって次世代に「伝え・贈る」デザイン活動をしたい、という想いを語られた。この後に紹介されていった実際の園庭の写真から、その思いがたくさん感じらることとなった。

門へ向かうアプローチの写真からスタートした園庭のスライドは、生き物がいそうな緑の植込みに早速ワクワクする。植込みの中に得体の知れない金属の構造物が見えてくる。しかし自然と共にサビていくその色は他の自然物と打ち解けているという工夫。植込みの仕切りが丸太なのも惹かれる作り。まだ園庭に辿り着いてもいないのに既に想いが詰まっている。そして中に入ると物見やぐらのような建物が見える。登ってみたい。他にもガシャポン井戸あり、登れそうで登っていいのか迷うような穴の開いた壁があったり、縁の下のようなスペースがあったり、ロープでできた橋、丸太でできた橋があったり、築山があり、ドカントンネルがある。子どもたちが気になりそうなしかけがちりばめてあり、登るチカラのある子は登れるような施しがしてあり、そのままでも十分遊べる作りになっている。そして何よりデザインがカッコイイ。後に訊いてみると本能的に惹かれるデザインを意識しているという通り、大人も子どもも誰であれカッコイイと思うはずである。子どもが遊びに没頭できるような作りになっている。そういった工夫はすべて実際に子どもと過ごす保育園の先生たちとの話し合いによって思いを共有されてできあがったということも非常に印象深い。子どもの頃自分たちはどんな経験をしてきたのか?転ぶこと、失敗することは、どんな意味を持つのか?ということを丁寧に話し合ってきたからこそ、こういった園庭作りができるのだろうと感じた。多くの園では「子どもにケガをさせない」ことが前提になっている。しかしケガからも、失敗からも多くの学びがあることを忘れてはならない。自転車に乗れるようになった時のことを思い出してみても、失敗を繰り返す中で乗り方の習得と同時に、身を守る術も体得していく。「失敗」が準備された環境を園庭に用意して、環境と折り合いをつける「センス」を育む環境でありたいという想いを語られた。

後半は講演タイトルのコドモのミエナイチカラに焦点を当てたお話となった。道路の縁石や歩道の柵、石垣塀など、子どもはつい登ってしまう。大人はなんでまたそんなところ!と思ってしまうようなことがよくある。しかし、そういう時、子どもが悪いのではなく、『環境がやモノが発しているコトバ』があるという。(それはアフォーダンスという概念で、例えば目の前に椅子があって、座れと書いてなくても座れるものだとわかる。これは椅子自身が座ることをアフォードしているということ。デザインや建築、知覚の分野で研究がされている。)安中さんの手掛ける園庭にはこのコトバを大切にした工夫が詰まっているのだと感じた。幼児期において重要とされる身体知(パトス)は、子どもたちの遊びたいという衝動が動いた時に育まれるという。それは環境が発するコトバを聴き取った時に、その遊びに没頭できることが必要である。しかし、大人の考える遊びと子どもにとっての遊びには時として大きなズレがある。遊びの時間に大縄跳びをしていて、保育者は楽しく遊んでいるつもりであったが、子どもは終わった途端に「もう遊んでいい?」と聞いたという。そのくらいズレがあるのだ。またかつて日本の家庭は「内」と「外」がつながっていた。庭でも食べ物を干したりなどの生活活動があり、そとからも家の中の匂いを感じやすい作りになっていた。生活と遊びにつながりがあったのだ。「遊び=こうしたらこうなるを求めないこと」(天野秀昭さんの言葉)であるというが、子どもにとって遊びとは「学び」であり、生活そのものが遊びなのである。それらは全てつながっているのだ。便利な社会になり快適であるが、その裏でなくなりつつある感覚があるということを、子どもをとりまく環境のひとつである私たち大人が意識しなければならない。

「遊び」というと、大人にとっては余暇・仕事以外の時間という認識が強いのではないかと思うが、子どもにとっての遊びは「学び」であり、「生活そのもの」であることがわかった。次年度から変わる保育所・保育士指針にも「遊び」に関して言及されているように、子どもにとっての「遊び」を考え直さなければならない。最後に安中さんは『どんなセンスをもって子どもたちと関わり、どんな想いを「環境」として贈り届けていきましょうか?』と呼びかけた。もぐらの冒険としては、ここに正面から向き合いたいと思う。

もぐらの冒険 小倉哲(もなか)